連載『閉店まで、あと十日』 第3回
八日前 ― 遺影の予約
水曜日の午後二時、予約の客が来た。
戸田キヨ、八十五歳。杖はついていない。紫のカーディガンに大きな真珠のネックレスをして、美容院に行ったばかりの頭をしていた。
「遺影、お願いしたいの」
大黒は帳面に何か書きこんでからうなずいた。店の隅で写真部の莉子がびくっとしたのは、遺影を撮りに来る人を見たことがなかったからだろう。
「生きてるうちに撮っとかないとね。娘に任せたら、どんな写真使われるかわかんないもの」
キヨはハンドバッグからコンパクトを出して口紅を塗り直した。二回塗った。
「前に撮ってもらったの、覚えてる? 昭和四十三年。結婚式」
大黒は少し考えてから「杉田さんとこの」と言った。
「そう、杉田。旧姓ね。よく覚えてるわね」
「白無垢が重いって、三回言った」
キヨは声を上げて笑った。
撮影室の椅子に座ると、キヨは何回も姿勢を直した。背筋を伸ばしてあごを引き、それからまた上げた。
「ねえ、にっこりしたほうがいいの? 遺影って」
「好きにしろ」
「好きにしろって言われてもねえ。笑ってる遺影って、なんか、葬式のとき浮かない?」
「浮かない」
「そう? じゃあ、ちょっとだけ笑うわ」
大黒は黒い布をかぶった。莉子は撮影室の入口に立って、それを見ていた。
「あ、ちょっと待って」
キヨが手を上げた。大黒は布から顔を出して、何も言わずに待った。
「主人の分も撮ってもらえる? 写真で」
ハンドバッグから次に出てきたのは小さな写真立てで、スーツを着た四角い顔の男の人が写っていた。
「去年死んだの。遺影がね、免許証の写真の引き伸ばしなの。ひどいのよ。指名手配みたいで。あの人、写真嫌いだったから、ほかにまともなのがなかったの」
大黒は写真立てを受け取ってしばらく見ていた。
「これを撮り直しても、きれいにはならん」
「そうよねえ」
「その代わり」
大黒はカウンターの奥へ行ったきり、しばらく帰ってこなかった。戻ってきたときに手に持っていた古い写真は、キヨの結婚式のものだった。紋付の新郎と白無垢の新婦が並んでいて、新郎のほうは緊張しすぎたせいで、どこから見ても完全に怒っている顔になっていた。
「ネガがある。ここから、旦那だけ焼き直せる」
キヨは写真を両手で持った。それから長いこと見ていた。
「この人、この日、朝から何も食べてなかったのよ。緊張して。式の途中でおなか鳴っちゃって」
「覚えてる。撮影の途中で鳴った」
「鳴ったわよね」
そこで二人は一緒に笑った。莉子は大黒が笑うのを初めて見た。歯が何本かなかった。
キヨの遺影はちょっとだけ笑った顔で撮れたのに、本人は帰るまで「口紅、濃すぎたかしら」と気にしていた。
帰りぎわ、キヨは店のドアのところでショーウィンドウの写真を見た。
「この人、まだ飾ってるのね」
大黒は答えなかった。
「わたしが結婚した頃から、ずっとよね。奥さん、じゃないんでしょう?」
大黒はやっぱり答えなかった。キヨは「まあ、いいけど」と言って、カランとドアを鳴らして出ていった。
莉子は手帳に何か書いた。
「奥さんじゃない」
読み終えて、どうでしたか