創作恋愛・夫婦約2分

傘立ての紺色

わたしがバイトしている喫茶店に、雨の日だけ傘を忘れていく常連さんがいた。

四十代くらいの男性で、晴れの日にも来る。窓際の席で、ブレンドを一杯。雨の日は、帰りに必ず傘立てに紺色の傘を置いていく。次の日取りに来て、次の雨の日にまた忘れる。

四回目で、さすがにおかしいと思った。

「あの、傘、また」

「ああ、わざとなんです」

あっさり言われた。

「雨の日に、傘持ってないお客さんがいたら、貸してあげてもらえませんか。返ってこなくてもいいので」

わたしがぽかんとしていると、男性は、ちょっと言いにくそうに続けた。

「昔ね、ここで前のマスターに傘を借りたことがあって。それを返しに来たら、同じように傘を返しに来てた人がいて。それが家内なんです」

「え、それで」

「それで。傘立ての前で、どっちの傘がどっちのか、わかんなくなって。同じような黒い傘で」

男性は、ブレンドをひと口飲んだ。

「家内は三年前に亡くなりました。まあ、それで、誰かの傘になれたらと思って。って言うと、かっこつけすぎですね」

自分で言って、ちょっと笑った。

それからわたしは、雨の日に傘を持っていないお客さんがいると、紺色の傘を貸すようになった。

ほとんどの人は、ちゃんと返しに来た。返しに来た人同士が、傘立ての前で「あ、あなたも?」と話しこんでいることもあった。一度、返ってこなかった。男性に謝ると、「じゃあ、どこかで誰かをぬらさずに済んでますね」と言って、次の週、新しい紺色の傘を持ってきた。

去年の梅雨、若いカップルが店に入ってきた。

「あの、紺色の傘って、まだありますか。ぼくら、あの傘がきっかけで……」

わたしは傘立てを見た。紺色の傘が一本、立っていた。窓際の席で、男性がこっちを見ていた。話が聞こえていたらしい。

男性は、コーヒーカップを持ったまま固まっていた。それから、急にメニューを開いて、読むふりをした。逆さまだった。

#心温まる話

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