実話実話約2分

六千人の命のビザ

一九四〇年の夏、リトアニアの日本領事館の前に、大勢の人々が押し寄せていた。

ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた、ユダヤ系の難民たちだった。ヨーロッパの国境は次々と閉ざされていく。残された逃げ道は、ソ連を横断し、日本を経由して、第三国へ渡るルートだけだった。そのためには、日本の通過ビザが必要だった。

領事代理を務めていたのは、杉原千畝という外交官だった。

杉原は、本国の外務省に、ビザ発給の許可を求めた。返ってきた答えは、条件を満たさない者には発給するな、というものだった。難民の多くは、その条件を満たしていなかった。

杉原は、悩んだ。命令に背けば、外交官としての経歴は終わる。家族にも危険が及ぶかもしれない。

それでも彼は、ビザを書くことを選んだ。

それから約一ヶ月、杉原は朝から晩まで、手書きでビザを書き続けた。腕が痛み、ペンが折れても書き続けたと伝えられている。

やがて領事館の閉鎖が決まり、杉原はリトアニアを離れることになった。ベルリンへ向かう列車が動き出すまで、彼は窓から身を乗り出して、ビザを書いて渡し続けたという。

杉原が発給したビザで救われた人は、約六千人と言われている。

戦後、杉原は外務省を退職した。そのことについて、長く多くを語ることはなかった。

一九六八年、一人のイスラエルの外交官が、杉原を訪ねてきた。かつて杉原のビザで命を救われた一人だった。彼は二十八年間、杉原を探し続けていたのだ。

一九八五年、イスラエル政府は杉原に「諸国民の中の正義の人」の称号を贈った。翌年、杉原は八十六年の生涯を閉じた。

そして二〇〇〇年、日本の外務大臣が、杉原の家族に対して、公式に杉原の功績を称えた。

杉原が救った人々の子や孫は、今、世界中に何万人もいると言われている。

※史実をもとに再構成しています。

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