創作恋愛・夫婦約3分

入れ歯騒動

あの日は、朝からおじいさんの入れ歯がなかったんです。

上の歯のほう。夜はいつもコップに浸けとくんですけど、朝見たらコップだけあって中身がない。おじいさんは「お前がどっかやった」言うし、私は「あんたが寝ぼけてどっかやった」言うし、朝ごはんの前から大げんかですよ。

おじいさんは歯がないとしゃべり方がふにゃふにゃになるもんで、怒っても迫力がないの。「ばかやろう」が「ふぁかやろう」になる。私は途中で笑ってしもうて、それでまた怒られてね。

それから家じゅう探しました。布団をはがして、枕カバーの中まで見て、仏壇の引き出し、冷蔵庫、ごみ箱。新聞受けまで見ましたよ。なんで新聞受けに入れ歯があるのか知らないけど、あのときは二人とも必死でしたから。

お昼になっても見つからない。おじいさんはおかゆしか食べられない。梅干しを乗せたら、すっぱいのが歯ぐきにしみるいうて顔をしかめてね。

午後になって私ももう疲れてしもうて、縁側に座ったんです。そしたらおじいさんも隣に来て座った。二人とも、なんにも言わずに庭を見てました。柿の木にヒヨドリが来とった。

おじいさんが、ふにゃふにゃの声で言ったんです。

「ほまえと、ほうやって、ふわるの、ひさしぶりやな」

何言うとるのかわからんから、三回聞き返しました。

お前とこうやって座るの、久しぶりやな、て。

そう言われてみたらそうでした。定年してから、おじいさんは居間でテレビ、私は台所か畑で、同じ家におって顔を合わせるのはご飯のときだけ。縁側に並んで座ったのなんか、何年ぶりかわからん。

それでなんか二人して黙ってしもうて。ヒヨドリが柿をつつくのを、ずっと見てました。

入れ歯はね、夕方に見つかりました。おじいさんの、パジャマの胸ポケットから。

夜中にトイレに起きたときに、なんでかポケットにしまったらしいの。本人はまったく覚えてない。私、それはもう怒りましたよ。一日つぶれたんやからね。

おじいさんは入れ歯をはめて、急にはっきりした声で「すまん」言いました。はっきりしたら、なんだか、さっきのふにゃふにゃのほうがよかったような気がしてね。

それからですよ、おじいさんが、天気のいい日の午後に縁側に来るようになったのは。何を話すわけでもない。お茶を二つ置いて、並んで柿の木を見るだけ。

おじいさんが亡くなったのは、それから四年あとです。

縁側には湯のみを二つ出してます。自分のを飲んだあとに、おじいさんのほうのも飲む。冷めとるけどね。

#くすっと笑えていい話 #大切な人に会いたくなる話

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