失敗ノート
父から店を継いだとき、レシピ帳をもらえると思っていた。
うちは商店街の洋食屋で、ハンバーグとオムライスとカニクリームコロッケで四十二年やってきた。常連さんは「ここのデミグラスは真似できない」と言う。その作り方を、僕はちゃんと教わっていなかった。
店を閉めた父は、厨房の棚の奥から大学ノートを七冊出してきた。表紙に油のしみがある。
「これ」
開いてみると、レシピは一つも書いていなかった。
一九八三年四月 玉ねぎ焦がす。火が強い。
一九八三年六月 ライス硬い。水は米の一割増し。夏は二割。
一九八五年十一月 コロッケ破裂。タネ冷えてない。一晩置け。
一九九一年二月 デミ苦い。骨を焼きすぎ。色を見るな。においで見ろ。
全部が失敗の記録だった。日付と、何を失敗したかと、次にどうするか。長くても三行。
「これが、レシピ?」と聞いたら、父は「レシピはお前の舌が覚えてるだろ」と言った。「覚えてないのは、失敗のほうだ」
最初はぴんとこなかった。
店を継いで二か月目、デミグラスが苦くなった。何度やり直しても苦い。常連の田中さんが一口食べて、何も言わずに水を飲んだ。
その夜は七冊のノートを一冊ずつめくった。一九九一年二月の欄が見つかった。骨を焼きすぎ。においで見ろ。
次の日、オーブンの前で色ではなくにおいを見た。香ばしいにおいが焦げのほうへ半歩寄りかけたところで出した。苦くなかった。
それから自分のノートをつけている。八冊目。父の字の隣に僕の字が並ぶ。
二〇二六年八月 オムライスの卵が破れる。フライパンが冷たい。先に一分温める。
二〇二六年九月 カニクリームの塩が薄い。田中さんが塩を振った。次から二グラム増やす。
先週、厨房に入った新人のアルバイトが、玉ねぎを焦がした。二十歳の大学生で青い顔をしていた。
僕は八冊目のノートを渡した。
「最初のページ、書いといて。何を失敗したかと、次どうするか」
彼は少し迷ってから、ボールペンで書いた。
九月二十七日 玉ねぎ焦がす。火が強い。
四十三年前の父と同じ一行だった。
読み終えて、どうでしたか