靴箱の上の缶コーヒー
わたしは看護師で夜勤があって、夫はパン屋で朝が早い。
わたしが帰るのが朝の六時。夫が出るのが六時五分。平日に顔を合わせるのは玄関のこの五分だけだった。結婚一年目はそれがつらくて、ベランダで何回か泣いた。夫には言わなかった。
ある朝、玄関の靴箱の上に缶コーヒーが一本置いてあった。ボスの微糖。まだ温かかった。缶に油性ペンで「おつかれ」と書いてあった。
次の朝もあった。「さむい」。その次は「あんぱん、失敗した」。失敗の内容は書いていなかった。
わたしも真似した。夜勤の休憩中に病院の自販機で買って、朝、夫の靴の横に置いた。「いってらっしゃい」「あんぱん、何を失敗したの」「雪、スリップ注意」。
五分しかない朝は変わらなかった。でも玄関で目が合うと、お互いに缶を持ち上げて見せてにやっとする。夫はそのまま出ていく。
七年つづいた。空き缶はなんとなく捨てられなくて、洗ってベランダの棚に並べた。棚が三つになったころ夫に「そろそろやばくない?」と言われて数えたら、二千本を超えていた。
先月、わたしは日勤の部署に異動になった。
異動初日の朝、初めて平日に一緒に朝ごはんを食べた。夫はトーストを焦がした。パン屋なのに。
「缶コーヒー、どうする」と夫が聞いた。
「どうしよう」
毎日会えるなら、もういらない気もした。
夕方、仕事帰りにコンビニに寄ってボスの微糖を二本買った。家に着いて靴箱の上に一本置いた。もう一本は自分で開けて飲んだ。
夫が帰ってきて、靴箱の上の缶を見た。
「何も書いてないじゃん」
「書くこと、なかった。さっき全部しゃべったし」
夫は缶を振って、開けて、ひと口飲んでから「ぬるい」と言った。
次の日の朝、靴箱の上に缶が置いてあった。「ぬるかった」と書いてあった。
読み終えて、どうでしたか