毎日のプロポーズ
夫がわたしのことを忘れて、二年になる。
施設に面会に行くと、夫は「こんにちは」とていねいに頭を下げる。わたしは夫にとって、毎日来る近所の親切なおばさんらしい。
一つだけ、変わらないことがある。
面会が終わる時間になると、夫はそわそわしはじめて、わたしの顔をちらちら見て、湯のみを持ったり置いたりしてから、言うのだ。
「あの、失礼なことを言うかもしれませんが。あなたみたいな人と一緒になれたら、いいなと思うんです」
一回目は、トイレに駆けこんで泣いた。職員さんに心配された。
十回目くらいから、慣れた。慣れたことにした。「あら、ありがとうございます。考えときますね」と答えると、夫はほっとした顔で笑う。次の日には、全部忘れている。
職員の若い男の子が言った。「毎日同じ人に告白するって、すごいですよね。ぼく、同じ人に二回ふられたことあります」
関係ない話だった。でも、ちょっと笑った。
五十二年前、夫がわたしにプロポーズしたのは、駅前の喫茶店だった。緊張してコーヒーカップをひっくり返して、ズボンをびしょびしょにしながら、「あなたみたいな人と一緒になれたら、いいなと思うんです」と言った。
一字一句、同じ。
コーヒーを拭きながら言っていたのまで、わたしは覚えている。夫は覚えていない。
昨日、面会の終わりに、夫がまた言った。湯のみを持ったり置いたりしながら。
わたしは、初めて違う返事をした。
「はい。よろしくお願いします」
夫は目をまるくして、それから湯のみを倒した。お茶が机に広がって、夫のズボンにこぼれた。
「わ、わ、すいません」
夫があわてて、ティッシュで自分のズボンを拭いた。わたしも一緒に拭いた。二人でティッシュを一箱ほとんど使った。
職員さんが雑巾を持ってきてくれるまで、夫はずっと、わたしの手を握ったまま謝っていた。何を謝っているのかは、たぶん本人もわかっていなかった。
読み終えて、どうでしたか