創作家族約2分

裏返しの「め」

母は字が書けなかった。

生まれた家が貧しくて、学校にほとんど行けなかったらしい。ひらがなは少し読めたけど、書くのはだめだった。役所の書類も、学校のプリントも、小学校の高学年からは全部わたしが書いた。

保護者欄に母の名前を書くとき、先生にばれないように、わざと大人っぽい字を練習した。右上がりで、ちょっと崩す感じ。今思えば、あれで何人の先生をだませたのかわからない。

中学のとき、「おまえの母ちゃん字ぃ書けんのやろ」とクラスの男子に言われた。誰から聞いたのか知らない。その日、家に帰って、母に「もう学校来んといて」と言った。授業参観の案内を、母の目の前で丸めて捨てた。

母は「ごめんねえ」と言って笑った。怒らなかった。それが余計に腹が立った。

高校の入学式の朝。制服を着て台所に行ったら、テーブルの上にチラシの裏紙が一枚置いてあった。

鉛筆で、ひらがなが五文字。

「おめでとう」

線はがたがたで、大きさがばらばらだった。「め」が左右逆になっていた。紙の端には、何回も書いて消した跡があって、黒ずんでいた。消しゴムで消しすぎて、一か所穴があいていた。

横に、わたしの小一のときのひらがな練習帳が置いてあった。表紙に、わたしの字で「こくご 1ねん2くみ」と書いてある。母がどこかから出してきたのだ。

「ごめんねえ、へたで」

流しのほうから、母が言った。背中を向けたまま。

「夜中に、それ見ながら練習した。これだけは、自分で書きたかったけん」

わたしは紙をたたんで、生徒手帳にはさんだ。「め」、逆だよ、とは言えなかった。

その年の夏から、母に字を教えた。夜、ちゃぶ台で。母は覚えるのが遅くて、「ぬ」と「め」をしょっちゅう間違えた。「め」はなぜか、何回教えても裏返った。わたしが怒ると、母は「め、は難しいんよ」と言い訳した。そんなわけない。

十年たって、母は短い手紙なら書けるようになった。わたしが家を出てから、年に何回か封筒が届く。

「げんきですか ごはんたべてますか こっちはあめばっかりです」

「め」は、たまに裏返っている。

一回、指摘したことがある。電話で。「お母さん、また『め』が逆」。母は「あら」と言って、次の手紙で直してきた。

その次の手紙で、また裏返っていた。

#泣ける話 #心温まる話

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