創作家族約2分

最後のキャッチボール

父の余命が三か月だと聞いた日、父は医者の説明を黙って聞いて、診察室を出たところで僕に言った。

「グローブ、まだあるか」

あった。実家の押し入れに、中学のときのが。二十八歳の僕が野球をやめてから、十五年触っていないやつ。

やめた理由は父だった。毎晩の素振り百回。休みの日は河川敷で特訓。エラーしたら家まで無言。僕は野球が嫌いになって、中二の夏にやめた。父とはそれから、あまりしゃべらなくなった。

病院の中庭で、久しぶりにグローブをはめた。革がかちかちになっていて、指が入りにくかった。

父の投げた球は、ふわっと山なりに飛んできて、僕のグローブの手前でぽとんと落ちた。

「届いてないよ」

「わかってる」

二球目も落ちた。三球目で、やっと届いた。ぽす、という情けない音がした。

十球くらいやったところで、父がベンチに座った。息が上がっていた。

「悪かったな」

「何が」

「野球」

僕は答えずに、グローブの中の球をいじっていた。縫い目がほつれていた。

「おれが高校で肩壊してプロ行けなかったから、お前にって。お前が嫌がってるのはわかってた」

「わかってたなら、やめればよかったじゃん」

言ってから、きつかったかな、と思った。父は「そうだな」と言った。それ以上言い訳しなかった。

少しして、父がぽつりと言った。

「特訓のあとのキャッチボールだけは、楽しかったんだけどな」

覚えている。特訓が終わって、日が暮れかけた河川敷で、何も言わずに球を投げ合った時間。父は投げながら、ときどき鼻歌を歌っていた。何の歌かはわからない。音がはずれていた。あれだけは、嫌いじゃなかった。

「……それは、まあ」

それしか言えなかった。

それから毎週末、中庭でキャッチボールをした。父の球は、どんどん届かなくなった。最後の月は、ベッドの上で、僕が球を手渡して、父がそれを握って、僕の手に戻す。それだけになった。

一度、父が球を握ったまま鼻歌を歌った。やっぱり音がはずれていた。

「それ、何の歌?」

「知らん。親父が歌ってた」

じいちゃんの歌だったらしい。

父が死んだ次の年、息子が生まれた。

息子はまだ二歳で、ボールを投げると明後日の方向に飛んでいく。僕はそれを拾いに行って、また渡す。息子は投げる。また拾う。

気がつくと、鼻歌を歌っている。音ははずれている。

#泣ける話 #大切な人に会いたくなる話

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