ハーネスを外した日
盲導犬のベルと暮らして、十年になる。
ラブラドールの雌。私の目だった、というのは言いすぎで、ベルはよく間違えた。一回、コンビニに入ろうとしたら、隣の歯医者に連れていかれた。自動ドアが似ていたらしい。受付の人に「予約の方ですか」と聞かれた。
それでも、駅の階段も、横断歩道も、ベルがいれば怖くなかった。
盲導犬には引退がある。十歳くらいで、ボランティアの家に引き取られる。わかっていた。わかっていたけど、その日が近づくと、眠れない夜が増えた。
引退の前の日、最後の散歩に出た。いつもの道。パン屋の角を曲がって、公園を抜けて、川沿い。ベルの足取りは、少し遅くなっていた。それでも段差の前ではちゃんと止まって、自転車が来ると体を寄せてきた。
公園のベンチで、ハーネスを外した。
「もう仕事しなくていいよ」
ベルは、何が起きたのかわからないみたいに、私の足のそばで立ったままだった。ハーネスなしで外にいるのは、たぶん子犬のとき以来だ。
しばらくして、ベルは私の膝にあごをのせた。
仕事中には絶対にしないことだった。訓練でそう教わっている。十年間で、外でこれをされたのは初めてだった。
重かった。ベルの頭は、思っていたより重かった。それと、よだれがズボンに染みてきた。
翌日、引き取り先のご夫婦が来た。声の感じからすると、六十代くらい。奥さんのほうがよくしゃべった。
リードを渡した。ベルが何度も立ち止まるのが、リード越しにわかった。「行っていいよ」と言った。二回言った。三回目は言えなかった。
半年後、ご夫婦から手紙が来た。点字だった。奥さんがわざわざ点字を習って打ってくれたらしい。ところどころ点の位置がずれていて、「ソファ」が「ソフア」になっていた。
「ベルは元気です。一日じゅうソフアで寝ています。太りました。でも散歩のときだけは、段差の前でちゃんと止まります。私たちは見えるのに、止まります」
私は、指で「ソフア」を三回なぞった。
読み終えて、どうでしたか