背中の重さ
保護施設から引き取った犬は、人間をこわがった。
雑種の中型犬で、推定五歳。前の飼い主にたたかれていたらしい、と施設の書類にあった。手をのばすと体を小さくして、大きな声を出すと部屋の隅に逃げた。名前は施設でつけられた「ハル」のままにした。
最初の一か月、ハルは部屋の隅のケージから出てこなかった。ご飯は、私が部屋を出てからでないと食べなかった。一回、ドアのすき間からのぞいたら、ハルは食べるのをやめてこっちをにらんだ。それからのぞくのもやめた。
施設の人には「焦らないで」と言われていた。わかってはいた。
二か月目から作戦を変えた。何もしない作戦。話しかけない。近づかない。ハルから二メートル離れた床に座って、本を読む。毎晩一時間。
最初は読んでいるふりだった。そのうち本当に読むようになった。図書館で借りた分厚い歴史小説。上中下巻。
三か月目のある夜、中巻の途中で背中に何かが当たった。
振り向かなかった。振り向いたら、終わる気がした。
ハルの鼻だった。背中の、肩甲骨のあたりに、湿ったものがくっついて、ふんふんと息がかかった。
ページをめくった。手がふるえて、ぜんぜん読めていなかった。同じページを三回めくり直した気がする。
しばらくして、背中にもっと重いものがもたれかかってきた。ハルが、私の背中にもたれて横になったのだ。背中ごしに呼吸が伝わってきた。速かった。それがだんだんゆっくりになった。
その夜は足がしびれても動かなかった。二時を過ぎたころ、ハルがいびきをかきはじめた。犬もいびきをかくのだと、そのとき知った。
それから少しずつハルは変わった。手からおやつを食べるようになり、撫でさせてくれるようになり、散歩で私の顔を見上げるようになった。
半年後、仕事から帰るとハルが玄関にいた。しっぽを振っていた。振り方がへたくそで、体ごと左右に揺れていた。練習不足という感じだった。
ハルは相変わらず知らない人がこわい。宅配便の人が来ると、ケージに逃げる。
でも、私が床で本を読んでいると、いつの間にか背中が重くなっている。歴史小説は下巻まで読み終わった。今は別の上中下巻を読んでいる。長いやつを選ぶようにしている。
読み終えて、どうでしたか