黒い傘の傷
中一の六月、塾に行く途中で雨に降られた。
傘を持っていなかった。コンビニの軒下で雨宿りしていたけど、やみそうにない。塾の時間が迫っていた。遅刻すると、先生が親に電話する塾だった。
「これ、使いな」
作業着のおじさんが、黒い傘を突き出していた。
「いいです、大丈夫です」
「いいから。おれ、すぐそこだから」
おじさんはわたしに傘を押しつけて、雨の中を走っていった。すぐそこ、と言ったのに、背中はなかなか見えなくならなかった。信号を二つ渡っていった。
傘の持ち手に深い傷があった。何かにぶつけたような斜めの傷。
返そうと思った。でも名前も住所もわからない。
次の日から、同じ時間にコンビニの前を通るようにした。傘を持って。一週間、一か月。会えなかった。梅雨が明けても持ち歩いた。晴れの日に黒い傘を持っているので、友達に「日傘?」と言われた。
冬のある日、同じコンビニの軒下で、小学生の男の子が雨宿りしていた。泣きそうな顔で空を見ていた。
わたしは手の中の黒い傘を見た。
「これ、使って」
「いいの?」
「いいよ。これ、わたしのじゃないから。困ってる人いたら、貸してあげて」
言ってから、ちょっとかっこつけすぎたと思った。男の子は傘を持って走っていった。
それから十年たった。
大学を出て会社員になって一年目の秋。駅の改札の前で、急な雨に立ち往生していた。コンビニのビニール傘は売り切れていた。
「これ、使ってください」
高校生くらいの男の子が、黒い傘を差し出していた。
持ち手に斜めの深い傷があった。
「これ、どこで」
男の子は頭をかいた。
「小学生のとき、知らないお姉さんにもらって。困ってる人に貸してって言われて。なんか、ずっと持ってて」
「……ずっと?」
「貸そうと思うと、みんな自分の傘持ってるんすよ。なかなか困ってる人いなくて」
十年、誰にも貸せなかったらしい。
わたしは傘を受け取った。男の子は「じゃ」と言って、雨の中に走っていった。フードをかぶって。
家に帰って傘を広げてみた。骨が一本曲がっていた。十年のあいだにどこかでぶつけたらしい。
その傘は玄関にある。次に貸す人はまだ見つかっていない。わたしも、みんな自分の傘を持っていることに気づいた。
読み終えて、どうでしたか