もうひとりの佐久間さん
郵便局の番号札は四十二番だった。前に三人いて、そのうちの一人が書留の封筒の書き方で窓口の人と揉めていたから、ずいぶん待たされた。椅子は四つしかなくて、ひとつは杖の人に譲ったので私は立って待った。
持ってきたのは往復はがきが一枚。宛名は佐久間ハツヱ様となっている。うちも佐久間だけど、ハツヱという人はいない。私はとし子で、主人は正二。主人は七年前に先に行ったから、いまはとし子だけ。
うちは柳町二丁目の十四番。もう一軒の佐久間さんは三丁目の十四番。丁目がひとつ違うだけで番地も苗字も同じなのだから、郵便屋さんが間違えるのも無理はない。最初に間違って届いたのは昭和五十八年だった。いや、上の子が中学に上がった年だから五十九年かもしれない。伊藤ハムのお中元で、網の紐でぐるぐる巻きになった太いやつ。主人が「もらっとけ、向こうも気づかん」と言うのでその場で叱って、エプロンのまま持っていった。
三丁目の十四番は、路地を入って二軒目の二階家だった。玄関の横に睡蓮鉢が置いてあって、メダカが三匹か四匹いた。呼び鈴を押したけど誰も出てこない。しかたないから鉢の横にハムを立てかけて、チラシの裏に「二丁目の佐久間です。間違ってうちに来ました」と書いて挟んできた。
あのころハムなんて贅沢品で、帰り道はちょっと惜しい気もした。それは主人には言っていない。
それから四十年あまり、何べんあの路地に入ったかわからない。年賀状は毎年三枚か四枚。お歳暮。区役所の封筒。車検のお知らせ。向こうも同じで、うちに来るはずの物があっちに行くと、新聞受けにそっと差しこんである。付箋に一行「三丁目の佐久間です」。ペン習字のお手本みたいな字だった。
おかしなことに、一度も顔を合わせたことがない。こっちが行けば向こうは留守で、向こうが来るのはたいてい私が買い物に出ている昼間らしかった。
付箋の一行は、何年かするうちに少しずつ長くなった。「三丁目の佐久間です。寒くなりましたね」「お宅の柿、今年はよく生っていますね」。うちの柿を見たのなら塀の前を通ったのだろう。私も負けずに「メダカ、増えましたね」と書いた。ほんとうは数えていなかったけど。
いちばん大変だったのは平成の、あれは何年だったか。大学の合格通知がうちに来た。大きくて分厚い封筒で、窓のところから「合格」の字が見えていた。これはいけないと思って、カレイを煮ていた火を止めるのも忘れてサンダルで走った。三丁目の角で転んだ。膝をすりむいて、ストッキングが伝線して、それでも封筒だけは胸に抱えて泥ひとつつけなかった。あれは自分でほめてやりたい。転んだ格好のほうは、誰にも見られていなければいいと思った。
うちに帰ったらカレイが焦げていた。主人は黙ってそれを食べた。黙ってというより、焦げたところを箸でよけるのに忙しくて口をきくひまがなかったんだろう。
一週間ほどして、新聞受けに付箋つきの羊羹が入っていた。とらやの、小さいほう。「孫が春から大学です。転んでまで届けてくださったと伺いました」。誰から伺ったのか、とうとうわからなかった。角のクリーニング屋の奥さんかしら。あの人は何でも見ている。
それで今度の往復はがきだ。届いたのが先週の火曜で、私はいつものとおり路地に入った。
二階家がなかった。
きれいにならした土に「売地」の看板が一本立っていた。睡蓮鉢もない。私はしばらく看板の電話番号を眺めていた。眺めても仕方ないのに、〇四八で始まる番号を二回くらい読んだ。
裏は見ないようにして持ってきたのだけど、往復はがきというのは見えてしまうもので、句会のお知らせだった。兼題は「秋の水」。ハツヱさんは俳句をやる人だったらしい。メダカのことは書いたのに、そっちのことは一度も書かなかった。
「四十二番でお待ちのお客さま」
窓口の若い人ははがきを見て奥へ行き、しばらくして戻ってきた。
「転居届が出ていますので、こちらで転送しますね」
「どちらに越されたんでしょう」
「申し訳ありません、それはお教えできないんです」
そうでしょうね、と私は言った。そうでしょうね、ともう一回言った。
「このはがきの隅っこにね、ひとこと書き足したらいけないかしら。二丁目の佐久間ですって」
若い人は困った顔をして、それから少し笑って、「お客さまのお名前で出すことになっちゃいますので」と言った。何がどうなっちゃうのかよくわからなかったけど、だめだということはわかった。
「転送は一年間ですから。一年は、ちゃんと届きます」
私はお礼を言って番号札を返した。返すところを間違えて、隣の窓口のトレーに置いてきてしまった。
読み終えて、どうでしたか