創作動物約4分

うちの曹長

長くなるけど聞いてほしい。あと虫が苦手な人はここで戻ってくれ。マジで。

去年の七月、大学三年の夏。家賃三万八千円、築四十一年の木造アパートの二階の六畳。夜中の一時ごろにレポート書いてたら、視界の端で壁の一部が動いた。

手のひらくらいあるクモだった。茶色で足が長くて平べったい。壁に貼りついたまま一ミリも動かない。こっちも動けない。三十秒くらいお互い固まってた。

とりあえずスマホで「クモ でかい 茶色 平たい」で調べた。アシダカグモってやつらしい。毒はない。人は噛まない(ほぼ)。で、ゴキブリを食う。一匹いれば家のゴキブリが半年でいなくなるとか書いてあった。ネットでは「軍曹」って呼ばれてて、崇められてた。崇められてるクモって何だよと思った。

正直に言うと、そのアパートはゴキが出た。週二で出た。前の住人が残していった謎のホウ酸団子が、冷蔵庫の裏に七個並んでた。

だから殺さなかった。というか、殺す度胸がなかったのを「益虫だから」って理由で正当化した。

その夜は電気つけたまま寝た。

次の日の朝、軍曹はいなかった。どこ行ったんだよと思いながら一日中ビクビクしてた。夜、風呂から出たら洗面所の鏡の上にいた。心臓止まるかと思った。でも向こうも同じくらいビクッとして、すごい速さで洗濯機の裏に消えた。速い。ほんとに速い。目で追えない。

それから一か月くらい、そういう生活をした。

いちばん覚えてるのは八月のはじめ。夜中に台所でカップ焼きそば作ってたら、流しの下からゴキが一匹出てきた。俺が新聞紙を丸める前に横の壁から茶色いのが一瞬で降りてきて、ゴキがいなくなった。いなくなったっていうか、軍曹の口のとこにいた。

湯切りのお湯をシンクに流しながら、俺はたぶん「お、おう」って声に出してた。

焼きそばはちょっとのびた。

そこから扱いが変わった。名前をつけた。軍曹って呼ぶのはネットの人たちと被るから「曹長」にした。一個上げといた。どっちが上かはそのとき知らなかった。いま調べたら曹長のほうが上だった。よかった。

曹長は夜にしか出てこない。出てくる場所はだいたい決まってて、カーテンレールの右端と洗面所の鏡の上と、玄関の靴箱の横。俺が帰ってきて電気をつけると、靴箱の横にいることが多かった。おかえりって言ってたわけじゃない。たぶん玄関の隙間から入ってくる虫を待ってた。でも俺は「ただいま」って言うようになった。友達には言ってない。

九月に一回だけ彼女が部屋に来た。来る前に曹長を外に出そうと思って、虫取り網(百均)を持って三十分部屋を探したけど見つからなかった。彼女は三時間いて、曹長は一回も出てこなかった。空気読める。

彼女が帰って電気を消したら、カーテンレールの右端で足が一本動いた。

そのころにはゴキはもうまったく出なくなってた。ホウ酸団子は捨てた。

十一月の終わりに寒くなって、曹長を見なくなった。最後に見たのは十一月二十三日で、靴箱の横だった。日付を覚えてるのは勤労感謝の日で、バイトが休日手当だったからだ。「お前も勤労してるな」って言った気がする。言ってないかもしれん。

冬のあいだ、帰ってきて電気をつけるたびに一回靴箱の横を見た。いないのはわかってた。

スレ違いだったらすまん。オチらしいオチはない。

で、今年の六月。四年になって就活が地獄だった時期。夜中の二時にエントリーシート書いてたら、視界の端で壁の一部が動いた。

去年のより小さかった。親指の先から小指の先くらい。たぶん別のやつ。子どもかもしれないけど、クモの家族構成とか知らないし調べてない。調べたくない気もする。

そいつはカーテンレールの右端にいた。

俺はエントリーシートの「学生時代に力を入れたこと」の欄に戻って、四百字のうち三百十二字まで書いて全部消した。それから電気を消さずに寝た。去年と同じだ。

朝起きたら、もういなかった。夜になったら靴箱の横にいた。

「ただいま」って言った。言ったよ。

#くすっと笑えていい話 #心温まる話

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