臨時列車
花火大会が終わったのは午後八時四十五分だった。河川敷から駅まで、ふだんなら歩いて十分の道に、一時間かかった。
午後九時五十二分発の臨時列車は、ホームに入る前から満員だった。ドアが開くと、人が人を押して乗りこんでいく。制服の駅員が「無理に乗らないでください」と、同じことを何度も言っていた。
浴衣の人が多かった。うちわを持った手が、つり革の高さでぶつかりあっていた。
男子高校生が一人、ドアの近くに押しこまれた。部活帰りらしく、エナメルのバッグを肩からさげていた。バッグには、白い字で「陸上」と書いてあった。
ドアが閉まった。列車が動いた。
高校生の足もとで、何かが動いた。
女の子だった。四歳か、五歳くらい。金魚の柄の浴衣を着て、赤い帯がほどけかけていた。人の脚のすきまにしゃがみこんで、高校生のバッグのひもをつかんでいた。
高校生は、下を見た。女の子も、上を見た。
「……お母さんは」
女の子は、首を振った。
高校生は、あたりを見た。見えるのは、人の背中と、うちわと、つり革だけだった。
「お母さーん」と、高校生が言った。小さい声だった。誰も振り向かなかった。
もう一回、言った。今度は、大きかった。
「この子の、お母さん、いますか」
車内が、少し静かになった。近くのサラリーマンが振り返った。浴衣の女性二人が、女の子をのぞきこんだ。誰かが「迷子?」と言った。誰かが「次の駅で降ろしたほうが」と言った。誰かが「前の車両かも」と言った。
「前の車両、見てきます」と、サラリーマンが言って、人のあいだをかきわけていった。かきわけるたびに、「すみません」「すみません」と聞こえた。
女の子は、高校生のバッグのひもを離さなかった。
高校生は、しゃがもうとしたが、しゃがめなかった。混みすぎていた。それで、中腰のまま、女の子の帯をなおそうとした。うまくできなかった。浴衣の女性が、「貸して」と言って、手を伸ばして結び直した。蝶々結びだった。
列車が次の駅に着く前に、前の車両のほうから、声が近づいてきた。
「さき! さきー!」
人の壁が、少しずつ割れた。汗だくの女性が、サラリーマンに腕を引かれるようにして出てきた。片方の下駄を、手に持っていた。
女の子は、高校生のバッグのひもを離して、そっちへ行った。
女性は女の子を抱きしめて、それから高校生に何度も頭を下げた。高校生は、頭を下げ返した。二人で、何回も下げあった。
「ありがとうございます、ほんとに、ありがとうございます」
「いえ、あの、おれ、何も」
列車が駅に着いて、ドアが開いた。母親と女の子は、そこで降りた。女の子は、降りるときに、振り返って、高校生に手を振った。
高校生も、手を振ろうとして、つり革をつかんでいたほうの手を離しかけて、電車が揺れて、隣のサラリーマンにぶつかった。
「すみません」
「いいよ」とサラリーマンは言った。
ドアが閉まった。高校生は、自分のバッグのひもを見た。ひもの、女の子がつかんでいたところだけ、汗で湿って色が濃かった。
読み終えて、どうでしたか