創作見知らぬ人約3分

臨時列車

花火大会が終わったのは午後八時四十五分だった。河川敷から駅まで、ふだんなら歩いて十分の道に、一時間かかった。

午後九時五十二分発の臨時列車は、ホームに入る前から満員だった。ドアが開くと、人が人を押して乗りこんでいく。制服の駅員が「無理に乗らないでください」と、同じことを何度も言っていた。

浴衣の人が多かった。うちわを持った手が、つり革の高さでぶつかりあっていた。

男子高校生が一人、ドアの近くに押しこまれた。部活帰りらしく、エナメルのバッグを肩からさげていた。バッグには、白い字で「陸上」と書いてあった。

ドアが閉まった。列車が動いた。

高校生の足もとで、何かが動いた。

女の子だった。四歳か、五歳くらい。金魚の柄の浴衣を着て、赤い帯がほどけかけていた。人の脚のすきまにしゃがみこんで、高校生のバッグのひもをつかんでいた。

高校生は、下を見た。女の子も、上を見た。

「……お母さんは」

女の子は、首を振った。

高校生は、あたりを見た。見えるのは、人の背中と、うちわと、つり革だけだった。

「お母さーん」と、高校生が言った。小さい声だった。誰も振り向かなかった。

もう一回、言った。今度は、大きかった。

「この子の、お母さん、いますか」

車内が、少し静かになった。近くのサラリーマンが振り返った。浴衣の女性二人が、女の子をのぞきこんだ。誰かが「迷子?」と言った。誰かが「次の駅で降ろしたほうが」と言った。誰かが「前の車両かも」と言った。

「前の車両、見てきます」と、サラリーマンが言って、人のあいだをかきわけていった。かきわけるたびに、「すみません」「すみません」と聞こえた。

女の子は、高校生のバッグのひもを離さなかった。

高校生は、しゃがもうとしたが、しゃがめなかった。混みすぎていた。それで、中腰のまま、女の子の帯をなおそうとした。うまくできなかった。浴衣の女性が、「貸して」と言って、手を伸ばして結び直した。蝶々結びだった。

列車が次の駅に着く前に、前の車両のほうから、声が近づいてきた。

「さき! さきー!」

人の壁が、少しずつ割れた。汗だくの女性が、サラリーマンに腕を引かれるようにして出てきた。片方の下駄を、手に持っていた。

女の子は、高校生のバッグのひもを離して、そっちへ行った。

女性は女の子を抱きしめて、それから高校生に何度も頭を下げた。高校生は、頭を下げ返した。二人で、何回も下げあった。

「ありがとうございます、ほんとに、ありがとうございます」

「いえ、あの、おれ、何も」

列車が駅に着いて、ドアが開いた。母親と女の子は、そこで降りた。女の子は、降りるときに、振り返って、高校生に手を振った。

高校生も、手を振ろうとして、つり革をつかんでいたほうの手を離しかけて、電車が揺れて、隣のサラリーマンにぶつかった。

「すみません」

「いいよ」とサラリーマンは言った。

ドアが閉まった。高校生は、自分のバッグのひもを見た。ひもの、女の子がつかんでいたところだけ、汗で湿って色が濃かった。

#心温まる話 #元気が出る話

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