満タン返し
午後四時二十分。国道十九号沿いのセルフのガソリンスタンドに、白いノートが入ってくる。わナンバー。
運転しているのは真奈美で、助手席に杏子。二人とも三十四歳。高校の同級生で、この旅行は五月から決まっていた。
車は三番の給油機の前で止まる。真奈美が降りて、車のうしろを回り、反対側で立ち止まる。
「こっちじゃない」
「え」
「給油口、そっち側」
杏子が窓から顔を出して、左右を見る。給油機は車の右側にある。給油口は左側にある。
真奈美は運転席に戻り、一度バックして、切り返して、また入る。今度は逆向き。ハンドルを切りすぎて、前のタイヤが縁石にこすれる音がする。事務所の窓の中で、制服の若い店員が両手を上げて、左、左、と動かしている。
二回目で、給油口と給油機が同じ側にそろう。
「レギュラーだよね」
「たぶん」
「たぶんって」
「借りるとき、言われた気がする。レギュラー」
真奈美がノズルを差しこむ。数字が回りはじめる。杏子は降りてこない。助手席でスマホを持っているが、画面は暗いままだ。
後部座席には、昨日のコンビニの袋が置きっぱなしになっている。中には、二つに割ったパピコの片方が、一晩で溶けて、袋の底で平らになっている。
給油が止まる。二十六・四リットル。三千九百十二円。
真奈美はレシートを取って、助手席の窓を叩く。杏子が窓を下ろす。
「千九百五十六円」
「うん」
杏子は財布から五千円札を出す。
「細かいのない?」
「ない」
真奈美は自分の財布を開けて、小銭を手のひらに出す。百円玉が四枚、五十円玉、十円玉がいくつか。数える。数えなおす。
「六円足りない」
「いいよ、それで」
「よくない」
「六円だよ」
「六円でも」
真奈美は事務所へ歩いていく。自動ドアが開いて、閉まる。杏子は窓を上げない。ガラス越しに、真奈美が店員と話しているのが見える。缶コーヒーを一本買って、お釣りを受け取って、出てくる。
「はい。三千四十四円」
杏子は数えずに受け取る。
「コーヒー、いる?」
「いらない」
真奈美は缶を開けずにドリンクホルダーに置き、エンジンをかける。四時三十五分。レンタカーの営業所まで、ナビで十一分。返却は五時。
国道に出て、最初の信号で止まる。前の軽トラの荷台に、ブルーシートをかけたリンゴの箱が積んである。一箱だけ、ずれている。
「保証人のことだけど」と杏子が言う。
「うん」
「ほかに頼める人、いないの」
「いたら、頼んでない」
信号が青になる。軽トラが走り出す。リンゴの箱は落ちない。
「旦那に聞いたら、やめとけって。私が決めることだけど、って前置きしてから、やめとけって」
「うん。聞いた。昨日」
「昨日も言ったね」
「言った」
ナビが、三百メートル先を右です、と言う。真奈美はウインカーを出す。出すのが早すぎて、右折レーンに入るまで、しばらくカチカチ鳴っている。
「お店、やめろって言ってるんじゃないよ」
「わかってる」
「ほんとに」
「わかってるって」
真奈美はドリンクホルダーの缶に手を伸ばして、開けて、飲まずにまた戻す。
営業所の駐車場に入る。四時四十八分。緑色のつなぎの男性スタッフが、クリップボードを持って出てくる。
「おかえりなさいませ。満タンで?」
「満タンです」
真奈美がレシートを見せる。スタッフはうなずいて、ボードに何か書く。
「では、キズの確認、ご一緒にお願いします」
二人は車を降りる。スタッフは運転席側から回りはじめ、真奈美がその後ろにつく。杏子は助手席側から、反対向きに歩いていく。
車のうしろで、三人が会う。
スタッフがバンパーの右下にしゃがむ。小さな、白っぽいこすれ跡がある。
「あ、それは」と真奈美が言いかける。
「これは、お貸し出しのときからですね。記録にあります」
スタッフがボードの図を見せる。車の絵の同じ場所に、赤いバツがついている。
「縁石は」と杏子が言う。「さっき、スタンドで、前のタイヤ」
スタッフは前輪のほうへ行って、ホイールを指でなぞる。
「大丈夫ですね」
手続きは七分で終わる。キーと、レシートと、書類。
営業所から駅までは歩いて五分。杏子のキャリーケースのキャスターが、四つのうち一つだけ、ずっと音を立てている。特急あずさの発車は五時二十五分。真奈美は高速バスで、五時四十分。
駅前の横断歩道で、信号を待つ。
「コーヒー、車に忘れた」と真奈美が言う。
杏子は営業所のほうを振り返る。緑のつなぎのスタッフが、もう白いノートを洗車の列に回している。
「取ってくる?」
「いい。百三十円だし」
信号が変わる。杏子は渡る。真奈美は渡らずに、バス乗り場のほうへ曲がる。
横断歩道の真ん中で、杏子が一度だけ振り返る。真奈美はバス乗り場の屋根の下にいて、時刻表のほうを向いている。
読み終えて、どうでしたか