隣の席のハンカチ
母が危篤だと姉から電話があった。
東京駅から博多までのぞみで五時間。間に合うかどうかわからなかった。窓側の席に座って、スマホを握ったまま、ずっと画面を見ていた。
隣は白髪のおじいさんだった。スーツにネクタイ。日経新聞を読んでいた。
名古屋を過ぎたところで、姉からLINEが来た。「意識はある。でも今夜がやまって」
声を殺して泣いた。殺しきれなかった。
おじいさんは新聞をたたんだ。何も言わずに、かばんからハンカチを出して、わたしの膝に置いた。アイロンがかかっていた。
それから、窓の外を見ながら話しはじめた。
「私も四十年前、この新幹線に乗りました。父が危篤で。まだ博多まで七時間かかった時代です」
わたしは顔を上げた。
「間に合いませんでした」
え、と思った。そこは間に合った話をしてほしかった。
おじいさんはわたしの顔を見て、あわてたように言った。
「いや、あの、すみません。そういう話じゃなくて。……ええと」
おじいさんはしばらく言葉を探して、それから言った。
「あとで、看護師さんに聞いたんです。父は最後、『今どのへんだ』と何回も聞いてたそうで。『静岡か』『名古屋か』って。新幹線の時刻表、頭に入ってる人だったんで」
「……」
「だから、その、あなたが今、この電車に乗ってることは、たぶん、伝わってるんじゃないかと。そういう話です。すみません、話がへたで」
わたしはちょっと笑ってしまった。泣きながら。
博多に着くと、おじいさんはわたしの荷物を棚から下ろしてくれた。
「走って」
走った。タクシーで病院に飛びこんだ。
母は生きていた。わたしの手を握って、かすかに口を動かした。
「あんた、いま、どのへん」
もう着いてるよ、と言った。母はそれで、安心したみたいに目を閉じた。母はその夜に亡くなった。
ハンカチは返せなかった。名前も聞かなかった。
アイロンのかかったハンカチは、かばんに入れて持ち歩いている。自分でアイロンをかけるようになった。前はかけたことがなかった。
読み終えて、どうでしたか