手帳の余白
大学受験の一か月前、電車に手帳を置き忘れた。
一年分の勉強計画と毎日の記録が書いてあった。何時間やったか、どの問題ができなかったか。それからページの端っこには、誰にも見せられない弱音。
「むり」
「うかる気がしない」
「にげたい」
「数学の神さまいたら殴りたい」
忘れ物センターに電話したけど、届いていないと言われた。あきらめた。
一週間後に小包が届いた。差出人の名前はなく、消印は隣の県で、中にはわたしの手帳が入っていた。
開いたら、ページの端の弱音の横に、知らない人の字で書きこみがあった。鉛筆で。消せるように、ということだろうか。
「むり」の横に、「でも次のページで、あなたはまた勉強してる」
「うかる気がしない」の横に、「この日、四時間半やってる。うかる気がしない人は四時間半もやらない」
「にげたい」の横に、「にげてもいいと思う。でも、たぶんにげない人の字だと思う」
「数学の神さまいたら殴りたい」の横に、「わかる」
最後のページに、便せんが一枚はさまっていた。
「勝手に読んで、勝手に書いて、ごめんなさい。住所は最初のページにありました。
私も昔、同じような手帳をつけていました。同じようなことを書いていました。誰かに、横から何か言ってほしかった。
受験、がんばってください。知らない先輩より。
追伸 数学の神さまは、私も殴りたいです」
その手帳を持って試験会場に行った。休み時間に鉛筆の書きこみを読み返していたら、「わかる」のところでなぜか笑ってしまって、隣の受験生ににらまれた。
受かった。
十年たって、小さい学習塾をやっている。受験生には毎年手帳を配る。
「弱音、書いていいよ。先生が横に何か書くから」
生徒たちは笑う。でも提出された手帳の端っこには、毎年たくさん何か書いてある。「むり」「ねむい」「親うざい」。
私はそれを一個ずつ読んで、横に鉛筆で書く。
「わかる」と書くことが一番多い。
読み終えて、どうでしたか