創作挑戦約3分

仮免、三回目

母が教習所に通うと言い出したのは、父が死んで二年目の春だった。

うちは福岡の、バスが一時間に一本しか来ない町にある。父が運転して母は助手席。四十年ずっとそうだった。父がいなくなってから、母は買い物のたびにタクシーを呼ぶようになり、それが片道千四百円かかった。

「もったいなかけん、自分で運転する」

六十五歳だった。私は東京にいて、危ないからやめてと電話で止めた。母は「あんたに言われる筋合いなか」と言って電話を切った。

仮免許の技能検定は一回目で落ちた。S字クランクで脱輪したらしい。二回目は坂道発進でエンストして、そのままずるずる後ろに下がっていき、助手席の検定員にブレーキを踏まれた。

二回目に落ちた夜に母から電話が来た。

「もうやめようかね」

声が小さかった。正直ほっとした。やめなよと言いかけて飲みこんだ。何でかはわからない。

「……次、いつ?」

「来週の木曜」

「じゃあ、それまでやってみたら」

母は「うん」とも「いや」とも言わずに「あんた、ご飯ちゃんと食べよると」と言った。

三回目の前の週末に福岡へ帰って、教習所の送迎バスに母と一緒に乗ってみた。高校を出たばかりくらいの子が五人乗っていて、みんなスマホを見ていた。母はリュックから手書きのノートを出した。

ノートにはコースの図が描いてあった。定規で引いた線の横に「ここでハンドル一回転半」「ここでミラー、右、左、右」と赤で書きこんである。坂道のところには「アクセルはおとうさんがおこっとるときの声くらい」とあった。

「何それ」

「低めに、じわーっと、ってこと」

私が吹き出したので、隣の男の子がちらっとこっちを見た。

木曜日は母から電話がなかった。夜になっても来ない。仕事中に三回くらいスマホを見た。九時すぎにやっと来たLINEは写真だけだった。台所のテーブルに置いた仮免許証を撮ったもので、ピントが合っていないうえに母の親指が半分写りこんでいた。そのあと一行だけ来た。

「S字はおとうさんのくちぐせでいけた」

何のことかわからなかったので電話したら、母は「ゆっくりでよか、ゆっくりでよか、って言いながら回った」と言った。父がいつも助手席の母に言われていた言葉だった。逆だ。運転してたのは父なのに、母がずっと隣で「ゆっくりでよか」と言っていたのだ。

母は去年本免許も取った。四回落ちた。

今年のお盆は博多駅から母の運転する軽自動車に乗った。母は駐車場を出るまでに二回エンストし、国道に出てからは制限速度より十キロ遅く走るものだから、後ろには長い列ができた。

「ゆっくりでよか」と私は言った。

「言われんでもわかっとる」と母は言った。

#元気が出る話 #くすっと笑えていい話

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