最後の一箱
禁煙は四回目になる。
一回目は三十のとき。娘が生まれたので。三か月もった。二回目は四十二のとき。タバコが一箱四百円を超えたので。二週間もった。三回目は五十のとき。会社の喫煙所がなくなったので。これは一年もったが、定年した先輩の送別会で一本もらって、終わった。
四回目は、健康診断だった。肺のレントゲンに影がある、と言われて、再検査で何もなかった。何もなかったが、医者に「次は何かあるかもしれませんよ」と言われた。若い医者だった。こっちの顔を見ないで、パソコンの画面を見ながら言った。腹が立った。腹が立ったので、やめることにした。
最後の一箱は、セブンスター。十四本残っていた。
女房が「賭けよう」と言った。一か月もったら、女房が温泉旅行をおごる。もたなかったら、俺が女房にバッグを買う。女房はもうバッグを選んでいた。コーチの、茶色いやつ。六万八千円。
最初の三日は、どうということはなかった。
四日目、会社で、午後三時になると手がポケットに行った。ポケットにはガムが入っていた。ガムを噛んだ。噛みすぎて、あごが痛くなった。
一週目の終わり、夜中に目が覚めた。台所に行って、冷蔵庫の上を見た。最後の一箱は、冷蔵庫の上に置いてある。捨てていない。女房が「捨てないの」と言ったが、捨てなかった。捨てたら、次の日に買いに行く気がした。置いてあるうちは、まだ「持っている」ことになる。理屈は自分でもよくわからない。
冷蔵庫の上の箱を、見るだけ見て、麦茶を飲んで寝た。
二週目、部下の吉川に「課長、なんか顔色いいっすね」と言われた。吉川はヘビースモーカーだ。喫煙所がなくなってからは、ビルの裏の非常階段で吸っている。ほめられたのか何なのか、わからなかった。
三週目が一番きつかった。飯がうまい。何を食ってもうまい。体重が四キロ増えた。ズボンのボタンが、ある朝、飛んだ。女房がそれを縫いながら笑っていた。
「タバコやめて、ボタンが飛ぶって」
「縫えばいいだろ」
「縫ってるでしょ」
二十六日目。吉川が非常階段で吸っているところに、たまたま出くわした。風下だった。煙がこっちに来た。
吉川が、慌てて消そうとした。
「いい。吸ってろ」
「いや、課長、禁煙中でしょ」
「いいって」
俺は、非常階段の手すりにもたれて、吉川が一本吸い終わるまで、そこにいた。何の話もしなかった。煙は、いい匂いがした。いい匂いがしたが、それで終わりだった。いや、終わりじゃなかった。一本くれと言いそうになって、口の中でガムを奥歯に押しつけた。
三十日目の夜、冷蔵庫の上の箱を下ろした。
女房がテーブルで見ていた。
箱を開けて、十四本、数えた。十四本あった。
それを、流しの三角コーナーに入れて、上から水をかけた。茶色い水が出た。
女房は、スマホで温泉の宿を調べはじめた。箱根か草津かで、三十分もめた。
草津になった。女房は、帰りに駅前の土産物屋で、コーチじゃないバッグを買っていた。二千九百八十円。自分の金で。
読み終えて、どうでしたか