カレンダーの「ス」
うちの台所の冷蔵庫の横に、JAのカレンダーがかかってる。毎月ちがう野菜の写真で、十月はさつまいも。そこに母が予定を書きこむ。「歯医者 4時」とか「町内 ゴミ当番」とか「ゆい 参観」とか。ゆいは妹で中一。俺の予定は書かれてない。高二にもなると予定が親の管轄から外れるらしい。外れてるのか興味がないのかは知らん。
で、そのカレンダーに、ここ半年くらい「ス」って一文字だけ書いてある日がある。月に五、六回。曜日はばらばら。
最初に気づいたのは五月だった。父に「これ何」って聞いたら、新聞から顔も上げずに「スーパーの特売だろ」と言った。近所のスーパーかねまつはチラシに「火曜市」とか「日曜朝市」とか書くから、まあそうなのかと思った。
ゆいは「スタバじゃない?」と言った。うちの母がスタバにいるところは想像できなかった。母はコーヒーにスティックシュガーを二本入れる人だ。そういう人がスタバで何を頼むのか、ちょっと見てみたい気はした。
俺は「スナック」説を出した。母に聞こえるところで言ったら、菜箸で頭をはたかれた。わりと本気で痛かった。
それで終わるはずだった。
九月の終わりの水曜日、部活が休みで俺は家にいた。夕方アイスが食べたくなって、かねまつまで自転車で行った。シャッターが閉まってた。水曜定休。知ってたはずなのに忘れてた。しょうがないからコンビニでガリガリ君を買って帰って、台所で食べながらカレンダーを見たら、その日の欄に「ス」があった。
水曜に、ス。
母はまだ帰ってなかった。母のパートは歯医者の受付で、終わるのが五時。その日帰ってきたのは七時すぎだった。「ちょっと寄るとこあって」と言って、すぐ風呂に入った。
ほかの「ス」の日も見てみた。かねまつの特売は火曜と日曜だけど、「ス」は月曜にも木曜にもあった。特売説は崩壊した。父の推理はだいたいいつも新聞から顔を上げないまま出てくるから、精度はそんなもんだ。
次に考えたのは、いや、考えたくなかったけど、病院だった。どこか悪くて通ってて、家族に言ってないパターン。ドラマでよく見るやつ。ス、で始まる病院を考えた。思いつかなかった。スポーツクリニック? 苦しい。その説は自分で却下した。それでも二日くらいは母の顔色を見てた。顔色はふつうだった。夕飯の唐揚げを俺より多く食べてた。
答えは思ってもないところから来た。
同じクラスの佐野が、昼休みに弁当食いながら言った。
「お前の母ちゃん、うちの母ちゃんのとこ来てるらしいな」
佐野の母ちゃんは市民プールの受付をしてる。
「プール?」
「大人の初心者教室。火曜と木曜の夜と、あと月曜と水曜の夕方もやってるって。お前んち、言ってないの」
言ってなかった。母が泳げないことも、言われるまで頭になかった。
いや、正確には、ちゃんと考えたことがなかった。夏に家族で海に行っても、母はいつもパラソルの下で荷物番をしてた。日焼け止めを塗りなおしながら、俺とゆいと父が波にもまれてるのを見てた。それが母の担当なんだと思ってた。
あと、ぼんやり覚えてることがある。俺が五歳か六歳のとき、天竜川の河原でバーベキューをして、俺は浅いと思って入ったところで足をとられた。父が服のまま飛びこんで俺をつかまえた。覚えてるのは、父のメガネが流れていったことと、メガネなしで運転できない父の代わりに母が運転して帰ったことだけだ。母が岸で何をしてたかは覚えてない。
覚えてないのに、なんでいまそれを思い出したのか自分でもよくわからない。佐野の話とつながってるのかどうかも、わからない。母に聞けばわかるんだろうけど、聞く気はない。
その日は月曜で、カレンダーに「ス」があった。
母はまた七時すぎに帰ってきた。玄関で「ただいまー」と言って、まっすぐ風呂場に行った。すれちがったとき、髪からプールの匂いがした。学校のプールと同じ、カルキの匂い。半年もこの匂いをさせて帰ってきてたのに、俺は一回も気づかなかった。たぶん俺のほうが部活の汗くさい匂いをさせてたせいだ。そういうことにしておく。
俺は洗面所に行って、ドライヤーをコンセントに挿して洗面台の上に置いた。いつもは引き出しにしまってあって、母は毎回それを出すのに、コードが絡まったとか言ってイライラしてる。
それだけして自分の部屋に戻った。
しばらくして、風呂のドアが開く音がした。
少し間があった。
それから、ドライヤーの音がしはじめた。
読み終えて、どうでしたか